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ロシア革命はロシア帝国の自作自演

 投稿者:ねこ  投稿日:2013年 4月30日(火)15時08分36秒
返信・引用
  ロシア革命はロシア帝国の自作自演

http://book.geocities.jp/japan_conspiracy/0202/p002.html#page118
http://book.geocities.jp/conspiracycalendar/02/d/04/0426.html

ロシア最後の皇帝ニコライ2世の誕生日は、
日本の明治維新(江戸城無血開城)に合わせられていた。
つまり、この皇帝は生まれた時から、「無血開城」になっていた。
歴史をもてあそぶ日本の陰謀の一例。
(仮説を含む)
( http://park.geocities.jp/j_con4/0104/p048.html )
 
 

論文掲載お願いします

 投稿者:萩原俊治メール  投稿日:2008年 6月14日(土)11時18分5秒
返信・引用 編集済
   中島様、藤井様、了解いたしました。それでは、言及した4本の論文のPDFファイルをお送りしますので、よろしくお願いします。死蔵しているよりも、多くの方に読まれた方が私としても有り難い。翻訳論と関係する論文だけをお送りしますので、私の「最初の暴力」論の途中からの掲載になりますが、私のいう「最初の暴力」についての説明も論文中にあるので、だいたい分かっていただけると思います。

 中島様へ:吉本隆明批判といっても、上野千鶴子がらみの批判にすぎません。ご期待外れになると思いますが、ご容赦を。ただし、私が取り上げた上野・吉本の誤りは知識人特有の、「物語の暴力」への無知を示す典型例と思います。

 藤井様へ:私の江川批判はあくまでも彼がそのドストエフスキー論において採用している方法論に関わるものです。つまり、ネイティブではない私たちのような外国人研究者が持たざるを得ない「限界」を無視して自説を展開しているところに彼のドストエフスキー論の誤りがあります。
 これは私ひとりの意見ではなく、古くは小林秀雄や森有正、さらに中村雄二郎などが述べてきたことを江川批判に当てはめただけです。論文では小林らの意見も詳しく紹介しています。しかし、彼らのその意見だけでは理論的な背骨に欠けますので、そこに私のベルクソン論を挿入しました。
 つまり、私たちが外国語を読むとき読みとることができるのは、ベルクソンのいう言語の「等質的」な面だけだというのが私の考えです。これは中村雄二郎の考えとも一致します。中村によれば、言語の壁を越えるのは言語のもつ「概念コミュニケーション」の機能だけです。ある言語の共通感覚が浸透した言語のもつ「イメージコミュニケーション」の機能は言語の壁を越えることができません。しかし、中村のこの考えは理論的には脆弱なもののように思います。私がベルクソン論を挿入したのはそのためです。いずれにせよ、江川のドストエフスキー論の誤りは、このような言語の壁を無視してドストエフスキー論を展開したことにあります。
 翻訳論に話を移しますと、結局、翻訳において伝達されるのは言語の「等質的」な面だけです。この面を正確に訳し、日本語としてもできるだけ読みやすいものにする、というのが翻訳者の使命になると思います。それ以外の、言語のもつ「質的」な面、つまり中村のいう言葉の「イメージ」はそもそも翻訳することはできませんので、翻訳をあきらめるしかありません。また、ネイティブでないかぎり、その言葉の「イメージ」を質的に感じ取ることは不可能です。また、たとえネイティブであっても、自分の母語のもつ質的な「イメージ」を他の言語に翻訳することは不可能です。これは、各言語がもつ、世界あるいは現実の言語記号による分節化方法、あるいは、言語における共通感覚のシステム、あるいは、ソシュールのいう「ラング(「言語」あるいは「国語」)」はそれぞれ異なるからです。
 ところが、驚いたことに、江川氏はネイティブではないのにも拘わらず、ドストエフスキーの書いた言葉の「イメージ」をあたかも質的に感じ取れるかのように述べながらドストエフスキー論を展開したのです。彼の「ラスコーリニコフ=666」などの名前論議などはその代表的なものです。これは研究ではなく冗談、それも悪い冗談だと思います。もっとも、ベテラン翻訳者の楽屋話で終わっていたのなら問題はなかったのですが、彼の『罪と罰』論が読売文学賞までもらったので楽屋話では済まなくなりました。あれを本当の学問研究だと思いこむ研究者まで出てくる始末です。最近、清水正様から送っていただいた冊子で、小沼文彦氏が鼎談で江川氏をこの点でたしなめておられたのを読みました(『鼎談ドストエフスキー』、日本大学藝術学部文芸学科「雑誌研究」編集室、2008、pp.19-20)。さすが小沼さんだと思いました。
 もちろん、森有正や須賀敦子のようにパリやミラノに住み続け、なかばフランス人やイタリア人になった人は別です。彼らはかなりの程度その地の共通感覚を身につけたのです。しかし、それでも、森有正が晩年告白していたように、自分は長いことフランスに住んでフランス語を使って生活をしてきたけれど、フランス人としては幼稚園児並だということです。また彼は、フランス人はたとえ間違ってもフランス語を間違うことはないが(変な言い方ですが)、私はフランス人ではないので、フランス人が間違うようには間違わないのだ、と述べています。これは私などのような神戸や大阪などにずっといて、日本語を使いつつ、ちんたらロシア語を読むだけの生活をしている者にはうかがい知れないことですが、理論的には当然そうだと納得できる言葉です。
 というような、かなり理屈っぽい話ですが、論文では以上のことを詳しく書きました。お読み頂ければ有り難いと思います。もっとも、私の「最初の暴力」論を軸にしたドストエフスキー論は生成中ですが、2年半後の定年までには書き終えるつもりです。今年はその手の論文を二本書くつもりです。
 長文をお読み頂き有り難うございました。
 

萩原先生へ

 投稿者:藤井一行  投稿日:2008年 6月13日(金)14時07分2秒
返信・引用
  ご論考をあちこちに送るのではなく、私のサイトにアップしていただけませんか?

 <翻訳出版の責任を問う>という総合的なサイトを用意するつもりですーー野崎批判を含めて。お二人がロシア語文学会に期待した公開審議などもそこでやれるようにしませんか?
 

萩原先生へ

 投稿者:中島章利  投稿日:2008年 6月13日(金)13時01分7秒
返信・引用 編集済
  萩原、長瀬両先生の興味深い内容のご投稿、拝読させていただきました。
 萩原先生ご執筆の4論文、ぜひ私にも送っていただくわけにはいかないでしょうか。ご諒解いただければ私のメールアドレスをご案内申し上げます。
 私も、以前吉本隆明の『言語にとって美とは何か』の言語論やマルクス解釈を批判したことがあります。これは引き続きの課題でもあります。これとの関わりで大変興味をもちました。なにとぞよろしくお願いいたします。

 ドストエーフスキィの亀山訳問題、トロツキーの森田訳問題、スタンダールの野崎訳問題、いずれも光文社古典新訳文庫という同じ場所で発生しています。
 一度に、しかも同じ出版社の同じ部門でかような問題が発生するのはきわめて異常な事態です。問題の本質の一端をありありと示していると思いますが、批判の先方を切った方々同士のコンタクトをとり、共同の戦線を結ぶというようなことは出来ないものでしょうか?
 

長瀬様に

 投稿者:萩原俊治メール  投稿日:2008年 6月13日(金)12時18分37秒
返信・引用
   長瀬様、お便り有り難うございました。また拙論を読んで頂き有り難うございました。『江古田文学』掲載の拙論「ドストエフスキーの壺の壺──シニフィエはどこにもない」は、私がふだんドストエフスキーの作品を読みながら感じていたことを、できるかぎり率直に、かつコンパクトに表現したものです。従って、共感して頂いたことが、とても嬉しいのです。
 また、長瀬様の「亀山郁夫氏を批判する(後書に代えて)」も読ませて頂きました。きわめて興味深い内容で、これは是非ともこれから出版される長瀬様のドストエフスキー論を読まなければと、思いました。ペレヴェルゼフのドストエフスキー論とジラールのドストエフスキー論、あるいはバフチンのドストエフスキー論との関係のことを始め、私にはまだ十分考えつくしていないことが多くあります。分からないことが多すぎるのです。このため、長瀬様の著書を読むことを楽しみにしています。
 ところで、当然のことでしょうが、文学者として振る舞うということは偽りの裡に生きないということです。また虚栄の裡に生きないということです。文学をやっている人間が平気で嘘をついたり見栄を張ったりするとなれば、彼あるいは彼女はもはや文学者ではありません。人間としても失格でしょう。従って、グロテスクなマトリョーシャ論をでっちあげ「小さき者」を侮辱し、『カラマーゾフの兄弟』の多くの誤訳を隠蔽した亀山郁夫は筆を折るべきです。
 長瀬様にメールで私の書いた最近の論文4編を添付ファイル(PDF形式)で送らせて頂きます。私の江川卓批判の中心になる論文は4年前に書いた「物語はなぜ暴力になるのか」です。これは暴力論であると同時に上野千鶴子や吉本隆明などを批判したものですが、これから順にお読み頂ければ、私のいう「共通感覚」(アリストテレスの概念)と「等質的/質的」(ベルクソンの概念)がお分かり頂けると思います。この概念を理解して頂くと、私の江川卓批判の意味が明らかになると思います。それ以前の私の論文は
http://ci.nii.ac.jp/で私の名前で検索して頂ければ、一部読むことができると思います。
 無知蒙昧な私も60歳を過ぎ、死が近づいてきたためか、ようやくドストエフスキーが少しは分かるようになってきたような気がします。若い頃からあまりドストエフスキー論を書いてこなかった自分の怠け癖に感謝しています。もし精力的に書いていたら、今頃は恥ずかしさのあまり死んでいたかもしれません。
 (別便でメールを送りますので、よろしくお願いいたします。)
 

些末な誤訳論争とは?!

 投稿者:藤井一行  投稿日:2008年 6月12日(木)14時25分5秒
返信・引用
  産経新聞の報道によれば、光文社文芸編集部の駒井稔編集長は「『赤と黒』につきましては、読者からの反応はほとんどすべてが好意的ですし、読みやすく瑞々しい新訳でスタンダールの魅力がわかったという喜びの声だけが届いております。当編集部としましては些末な誤訳論争に与(くみ)する気はまったくありません。もし野崎先生の訳に異論がおありなら、ご自分で新訳をなさったらいかがかというのが、正直な気持ちです」と文書でコメントしたという。
 問題になっているのは、製品(出版物)に欠陥があるかないかということ。消費者=読者が
歓迎してくれさえすれば、欠陥の有無はどうでもいいというのでは、ミートホープの社長と同じではないか! 食肉に疵があるという批判を<些末な偽装論争>だとして居直っているようなものだ。
 

光文社問題

 投稿者:中島章利  投稿日:2008年 6月12日(木)09時49分28秒
返信・引用
  長瀬先生、ありがとうございました。
 これで問題は、いわゆるドストエーフスキィ訳をめぐる亀山問題、トロツキー訳をめぐる森田問題、スタンダール訳をめぐる野崎問題であることを越えて、これらを出版している光文社問題であることが明らかとなりました。

 本年3月19日朝日新聞beが光文社古典文庫に石塚智子記者署名の記事を掲載しましたが、この中で光文社古典新訳文庫の駒井稔編集長の次の言葉が紹介されておりました。

 「自分自身が読んでいてつらかった部分を排除していったら、作品の純粋なおもしろさだけが残った」

 私は石塚智子記者に早速メールを送り、記事を興味深く読んだことと合わせて、以下のコメントを送りました。

 beに引用されていた駒井編集長の言葉には危惧を感じます。駒井編集長ご自身の率直な気分・感情は否定いたしませんが、このために、藤井先生が指摘されているような森田氏のような訳がまかり通るとしたらとんでもないことです。とくに社会科学文献であればなおさらのことです。社会科学の文献で恣意的・勝手な、面白ければそれでよい式の翻訳が許されないのは、いまさら私が言うまでもないことです。


 今回のスタンダール翻訳騒動の表面化で、これが杞憂でないことが駒井編集長自身の言葉で確証されました。
 精神的生産物の製造者責任、販売者責任が大きな問題となっています。
 

光文社森田訳も!

 投稿者:藤井一行  投稿日:2008年 6月11日(水)18時57分39秒
返信・引用
   長瀬学兄
久しぶりの貴重な投稿ありがとうございました。たいへん読み応えのある記事です。私も中島さんと、光文社古典文庫の森田訳の『レーニン』につづく『永続革命論』の吟味をすすめており、近く結果を公表するつもりでいます。ロシア語からの訳と偽装した誤訳だらけの既訳踏<盗>襲の産物です。どうも文庫編集長は確信犯のようですね。
 出版界にとって憂うべき事態が生じているようです。
 

光文社・亀山問題

 投稿者:長瀬隆メール  投稿日:2008年 6月11日(水)14時47分21秒
返信・引用
  萩原俊治さま

  本欄でお便りいただいたのは2月1日であり、私が目にしたのは少したってからですが、返信が遅れて失礼しました。私が日本ロシア文学会に入っていないので、お会いしたことが無く、お名前も昨年12月刊の『江古田文学』ドストエフスキー特集号で初めて拝見しました。ただし拙論をふくめて全20篇ほどの諸論の中ににあって屈指の好論と拝読しておりました。
  掛かりきっていた原稿がありまして、終わってからお便りしようと思って遅滞したのですが、これが『ドストエフスキーとは何か』780枚として今月末に成文社からの刊行のはこびになります。木下豊房君の2著、マサリックの『西欧とロシア』全3巻を初めとして、ロシアとドスト関連で実績のある出版社です。同社のHPに拙書全13章の目次が掲載されています。
  この原稿では亀山のカの字にも触れなかったわたしでしたが、途中で別の出版社から新書執筆の打診があり、これには木下プラスNN氏の亀山翻訳批判を紹介しつつ、私自身の批判を展開ました。(このために本体の校正が一ヶ月以上遅滞)。
  ともあれこの「騒動」の渦中でドスト論を刊行するわけでして、読者のうちにはこの問題にたいする著者の態度を質す人が現れて不思議はなく、「亀山郁夫氏を批判する」を執筆、拙HPに掲載しました。「ドストエーフスキイの会」のHPからも入れます。ご披見ください。

  問題は訳者に在る以上に出版社に在るように思われます。たとえば編集部で任意の既訳書を平易(?)に書き直し、然るべき訳者を選び、校閲してもらってその人物の名で出すということが成されたのではないかと疑われます。
  もっともそれに応じる訳者はそれなりの人でなければならないのであって、亀山氏はみすず書房の「スタヴローギン論」によってその眼鏡に適ったということになりましょうか。あの書におけるテキストの改ざんは犯罪でして(貴方は「狂人」と記していましたね)、それが通用した(と思った)ので彼は舞い上がったのだと思われます。
  申し上げるまでもなく、『カラマーゾフの兄弟』の主題は唯一絶対神の有無です。「神が無ければ全てが許される」――すなわち殺人も許されるのでして、彼はテキストは絶対ではないと考え、「自由」訳を目指したわけでしょう。すなわちドストエフスキーの殺害もまた許されると。
  読みやすさの秘密には、先に述べた諸点に加えて、改行を頻繁にしていることが挙げられます。横書きの音標文字はパラグラフが大きくても耐えられるのに対し、縦書きを目指して作られている漢字ひらがなの文章では、読者への負担がはるかに大きくなります。いわんやドストエフスキーのパラグラフは大きく、その人物たちの長広舌はロシア人でさえ辟易するものです。
  新書関連で接した編集者たちによると、読者には、若い世代の人々と同時に、予想以上に中高年の女性が多いのだそうです。ご本人とはまだ「騒動」以前にビールを飲む席で私は話し合ったことがありますが、なよなよした女性的な感じの人です。訳文の調子も同様。このあたりに問題の問題が秘められているかもしれませんね。喧伝されている部数のうち全5冊を購入した人はその数分の一としても、これらの「善男・善女」は敵であるはずはなく、無視できません。
  同じ出版社のスタンダール『赤と黒』で同じ問題が発生し、木下君に教えられて私はスタンダールの会のHPでその正当な批判文を読ませてもらいました。おびただしい誤訳とともに勝手な改行が厳しく批判されていて注目しました。「絶版にせよ」と主張されています。難しいことです。

  江川卓さん関連の批判文を読まさせていただきたく、掲載された紀要を送ってくださいませんか。当方からもしかるべきものを送らせていただきます。今後ともよろしく。

                 6月11日、08   長瀬 隆

http://homepage2.nifty/~t-nagase

 

森田成也訳『レーニン』の検討57・最終回

 投稿者:中島章利  投稿日:2008年 3月16日(日)08時02分47秒
返信・引用 編集済
  この"検討57"で森田訳『レーニン』のうち「レーニンと旧『イスクラ』」が終了する。最後の最後まで、わが森田は誤訳だらけである。



森田訳P101
大会の半分が自分に<対立し>、<味方につけた>プレハーノフ<さえ><あまり>頼りにならない半同盟者で<しかなく>、編集部<欠落1>の残りすべてが公然かつ断固とした反対者<となっているときに>、このような<一歩を踏み出す>決意をするためには、そしてこのような条件下で新たな選別を<開始する>決意をするためには、自己の事業に対するばかりでなく自己の<力量><に対する><欠落2>まったく並外れた確信<欠落3>が必要であった。


●原文に存在しない文言の挿入の多さや誤訳の多さに唖然とする。


<対立し>→反対しておりимея против
<味方につけた>→原文に存在していない。
<さえ>→原文に存在していない。
<あまり>→原文に存在していない。
<しかなく>→原文に存在していない。
<欠落1>→メンバーたちのчленов
<となっているときに>→であるときにимея
<一歩を踏み出す>→措置を、挙を、行動を、手段をшаг
<開始する>→原文に存在していない。
<力量>→力силы
<に対する>→に対してもまた и в
<欠落2>→それはもうуже
<欠落3>→持っていることиметь


このようなとんでもない、トロツキー「新訳」を世に送るという<一歩を踏み出す>決意をするためには、そしてトロツキーの原文を誠実にискренно訳すのではなく、ちゃっかりと松田訳、高田訳を下敷きにしてそこから新たな選別を<開始する>決意をするためには、自己の訳業に対するばかりでなく自己のロシア語の力量に対する、それはもうまったく並外れた過信と傲慢さ―バレはしないという―とが必要であったに違いない。
 西島栄=森田訳『永続革命論』といい、この『レーニン』といい、わが国の翻訳史上、前代未聞のスキャンダルである




同P101
この確信をレーニンに与えたのは、<さまざまな経験によって><試された>自己評価であり、それは「教師たち」との<共同の活動>と<その後の>分裂という雷鳴と<雷>に<先立つ><最初の><衝突の><稲妻>から<生じたものだった>。


<さまざまな経験によって>→経験によってопытом。単数形である。それゆえ当然のことながら<さまざまな>なる文言は存在しない。

<試された>→点検されたпроверенная
<共同の活動>→協同作業、協働совместной работы
<その後の>→将来のбудущие
<雷>→稲妻молнии
<先立つ>→前触れとなっていたпредвещавших
<最初の>→初期のпервых
<衝突の>→諸紛争の конфликтных。またしても!
<稲妻>→稲光арниц
<生じたものだった>→成長した(ところの)ものであったкоторая выросла



同P101
このような事業を開始し<欠落><最後までやり通す>ためには、<欠落>強力な目的意識性のいっさい<を必要とした>。


<欠落>→それをего
<最後までやり通す>→やり遂げるдовести (его) до конца.
<欠落>→レーニンのЛенина
<を必要とした>→(すべて)が必要であった。вся могущественная целеустремленность Ленинаは主格である。



同P101
レーニンは<欠落1>弓の弦を<ぎりぎりまで、限界まで><引きしぼり>、<欠落2>どこか<弱いところはないか>、<切れそうなところはないかを><欠落3><調べた>。


●すさまじい誤訳のオンパレード

<欠落1>→倦むことなくнеутомимо
<ぎりぎりまで、限界まで>→ぎりぎりまで、いっぱいにдо предела, до отказа
単語としてはпределの方が「限界」の意である。

<引きしぼり>→(ぴんと)張っていたнатягивал。不完了体。
 ここで森田は原文の内容を誤解している。「引き絞る」とは弓に矢をつがえて、弦を後ろに強く引っ張ることをいう。原文の натягивал は弓に弦がぴんと張られていた、ということである。この語の誤訳がこの部分全体の誤訳を引き起こしている。

 「引きしぼり」の訳語を含めこの箇所もまた松田訳の踏襲である。森田はトロツキーの原文にではなく松田訳のイメージにぴったりと寄り添っている。そして松田訳よりも欠落が多い分、後退している。



松田訳
「レーニンはたえず弓の弦を弓が折れる極限のところまで引きしぼった。だが同時に
彼は注意して、指でどこかゆるんでいるところはないか、どこか折れそうなところは
ないかを試験していた。」(P296)



<欠落2>→そして同時にи в то же время
<弱いところはないか>→弱くなってきてはいないかне слабеет ли。不完了体。
<切れそうなところはないかを>→撚りが戻る惧れはないか?не грозит ли рассучиться?
<欠落3>→慎重にосторожно
<調べた>→指で試してみていたпробовал пальцем: 不完了体。

 
 引き絞って調べる? やれるものならやってみるがよい。
常人には無理というものだ。両手が塞がっているのだからだ。それゆえ森田は「指でпальцем」を欠落させたのだろうか?
 そもそも<引きしぼって>いるときに弦が緩んでいるはずがないではないか! 森田よ、一体どんな弦を使っているのかね?
 弦が特殊なのか? それとも翻訳が特殊=頓珍漢なのか? この二つに一つだ!




и в то же время以下の部分は次のように訳すべきであろう。

そしてそれと同時に、慎重に指で試してみていた。どこか弱くなってきてはいないか、撚りが戻る惧れはないか? と。
и в то же время осторожно пробовал пальцем: не слабеет ли где, не грозит ли рассучиться?




同P101-P102
「そんなに<引きしぼっては>ならない、弓が壊れてしまう!」と四方八方から人々が<叫んだ>。
「いや壊れはしない」、と<弓使いの>名人は叫んだ―「われわれの弓は<欠落>、<プロレタリア的
材料からできているのだ>。党という<弦>をもっともっと<引きしぼらなければならない>。
なぜなら、重い矢を遠くまで<飛ばさなければならないからだ>!」



ここでも松田訳がしっかりと踏襲・利用されている。


松田訳
四方八方から人は彼にいったものだ。「君はそんなに弓を張っちゃいかんよ、折れるよ」。巨匠は答えた。「折れないよ、われわれの弓は折れることのないプロレタリアの材料でできているんだ。だから党の弦をもっともっと緊張させなければならない。なぜなら、重い矢はうんと遠くまで飛ばねばならぬからだ」(P296)




原文と試訳
"Нельзя так натягивать, лопнет лук!" -- кричали с разных сторон.
"Не лопнет,-- отвечал мастер.-- Лук наш из неломкого пролетарского материала, а партийную тетиву нужно натянуть еще и еще, ибо придется далеко посылать тяжелую стрелу!"

「そんなに張ってはいけない、弓が壊れてしまう!」、さまざまな方向からわめき立てていた。
「壊れはしない」、名人は答えていた。「われわれの弓は壊れにくいプロレタリア的材料製だ、そして党という弓の弦をもっともっと張らなければならない、なぜなら遠くまで重い矢を飛ばさなくてはならないだろうからだ!」と。




<引きしぼっては>→張ってはнатягивать
<叫んだ>→わめき立てていたкричали。不完了体。
<弓使いの>→原文に存在してない。
<欠落>→壊れにくいнеломкого
<プロレタリア的材料からできているのだ>→プロレタリア的材料製だиз (неломкого) пролетарского материала

<弦>→弓の弦тетиву
<引きしぼらなければならない>→張らなくてはならないнужно натянуть
<飛ばさなければならないからだ>→放たなくてはならないだろうからだпридется ・・・посылать。完了体未来。
 矢を「飛ばす」ではなく、「射る」、「放つ」とするのが正しい日本語表現であろう。
 

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