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二中最終卒業式

 投稿者:塚本  投稿日:2012年12月 4日(火)17時34分12秒
  23回生の卒業式が二中の最後になったわけですが、同日芸陽高校の解散式がありました。この二つが同時に行われたものか、覚えて居るひとはいませんか。卒業証書の日付は同じ日です。
そして、これらの行事はどこで行われたのでしょう。添付の写真では、集合場所になるような、講堂などは見当たりません。まさか、運動場で行われたとはおもえないのでね。
観音高校第1回卒業式も、同じ場所で行われたはずですが、私の記憶では、建物の中だったような気がします。
どなたか教えてくれませんか。
 
 

23回生の入学式、卒業式など

 投稿者:塚本  投稿日:2012年12月 3日(月)14時48分56秒
  新出兄がこの夏の洋酒の会の時読んでくれた兄の御尊父の書かれた入学式の模様をホームページにアップすることを許してくれました。併せて、卒業式のこともアップしたいと思っています。誰か書いてくれませんか。考えてみると、在学が戦中、戦後の混乱期でもあり、学校としての写真などの記録が殆どありません。各自では、その時期の写真、日記などをお持ちでしょう。それを共通の思い出にするために、差し支えのない形で、提供してくれませんか。ホームページにアップして適当な時期にまとめて、pdfかなにかの形で、皆さんにくばり保存してもらいたいと思っています。いずれ、ポプラ会も閉じるときがくるとおもいますので、それまでの活動記録としても。  

洋酒の会2

 投稿者:塚本  投稿日:2012年11月30日(金)11時43分39秒
編集済
  あんまり掲示板の書き込みがないので、荒谷兄に頼んで、洋酒の会の定例報告をしてもらう事にしました。これが呼び水になり、書き込みが増えることを期待します。
さて11月例会ですが、ボジョレヌーボーの解禁月で有ることに因んで、赤のハーフボトルで乾杯しました。ご存じの通り、ボジョレはパリの東側のブルゴーニュ地方にある葡萄酒の名産地。なぜか、数あるフランスの葡萄酒の中でここのその年の初物が世界的に評判になり、特に日本が時差の関係で世界で一番早い解禁になるということで、国中で売れまくります。日本人の性癖でしょうか。

まあ、この会も長く続くとまんねりになるので、折りにふし、なにか気付けになるイベントをやって、気分を新たにする必要があるようです。さし当たって、忘年会、新年会ですが、忘年会は時期を逸した気味があるので、新年会ですね。

参加募集がありましたが、原則無制限でよいとおもいますが、カクテルの乾杯は、5人が限界で、ミキシンググラスとシェイカーの容量の限界をこえるので、これ以上になると、カクテルの乾杯はやめて、何か適当な洋酒で乾杯して、あと希望者に個別に作ることにさせてください。弁当当番も人数が増えると、買い出しが大変になるので、仕出しを頼むことも考えなければいけませんね。
時々、場所を変えて、安いレストランなどを考えたらどうでしょう。ランチですと、有名ホテルでも結構手頃感のあるメニューを出しています。やはり一流ホテルになると、雰囲気がよいですから、ちょっと偉くなった気分になります。これもよいものですよ。歳をとってまで、いつまでもセルフサービスでも無いような気がします。
11/29の話題は、国重兄の恒例?の被爆体験談、栗栖兄のゴルフの話題、それに塚本の原発にかかわる放射性廃棄物の処理問題などで、最近に無く盛り上がりました。荒谷兄の発言がいつもながら無いのが淋しいですが、外人あいての被爆証言活動の中では、面白い話もあるのではと想像するのですが。

これから、会の時に言い足りなかったことや、これを読んだ人(ポプラ会員にかぎる)からの投稿もあってよいのではと思います。ただし、この掲示板はインターネットに公開されて居ますので、個人情報に係わることは注意して避けましょう。
 

洋酒賞味の会に参加しませんか

 投稿者:荒谷勲  投稿日:2012年11月29日(木)18時40分31秒
  平成23年までは、中村忠之兄宅で「洋酒賞味の会」を毎月開催していましたが、
平成24年からは吉島福祉センターで、「新洋酒の会」を毎月下旬に開催しています。
昼食弁当付きで、カクテルやリキュールを飲みながら、しゃべっています。
この歳になって洋酒をじっくり味わうのも、いいですよ。
元気でいるうちに、毎月開催して、健康であることを喜び合いましょう。
希望の方はご参加ください。会費1,000円。
 

夢を持ちましょう

 投稿者:塚本  投稿日:2012年11月24日(土)11時11分33秒
  浅野兄
80過ぎると、医者に行っても、年だからか、あんまり真剣に取り合ってくれなくなったような気がしています。年は年なのですから、仕方がないですが、目先、色々、楽しいことをかんがえて気を若く持ちましょう。洋酒の会も11月はボージョレヌーボー解禁の月なので、荒谷兄に頼んで一本準備して貰っています。ちょっと気取ってみませんか。忘年会、新年会もかんがえたいですね。今度会ったら皆と相談しましょう。
この掲示板の活性化のためにも、毎月の洋酒の会の状況報告をアップしませんか。
 

年の瀬も近く

 投稿者:浅野温生  投稿日:2012年11月24日(土)08時40分57秒
  私事ですが、11月は4日が近所の知人(85歳)、6日が我われの同期・薄田君(81歳)、8日が中国新聞の入社同期生(83歳)の葬儀…と1日おきに葬儀に参列しました。また知己、友人のご家族からの喪中葉書も届きます。
 去年(こぞ)の初春(はる) 賀状をくれし 朋は逝く
傘寿過ぎ、無常を歎ずる年の暮れです。
 

ご協力ありがとうございます

 投稿者:塚本  投稿日:2012年11月13日(火)12時21分58秒
  浅野兄には原稿のことでいつもお世話になっています。
また、荒谷兄には中村兄が佐藤兄よりこのホームページを引き継いで大幅にバージョンアップされた時英語版などに全面的に協力されてたうえ、現在のホームページ維持にも貢献してもらっていることに、両兄に感謝します。
さて、荒谷兄等が優秀だったか、のご質問ですが、確かに優秀でした。昭和25年度の広大入試で、もっとも競争率が高かったのは、他でもない、工学部工業化学科でしたからね。当時戦後の繊維産業ブームで、その発展ぶりは眼を見張るものが有りました。塩化ビニールとか次々新しい合成化学物質が発明され、絹などいっぺんに影を薄めました。当然就職を目指す工学部志望の若者は、化学工業を目指したのは当然でしようが合格できたのは、貴兄等中学校時代からの秀才でした。ただ、戦後の世界的な時代の急変から、卒業時期には、化学繊維ブームは去り、造船、機械等重厚長大時代に入っていたためと、朝鮮戦争ブームが一段落したための不況に襲われて、就職には苦労されたと思います。重見兄とは観音時代から親しくしてもらっていましたので、彼の就職した興和パルプが破産し次々と転職したのを、目の当たりにしています。

荒谷兄には、この掲示板でいろいろ提案して貰って、現在の洋酒の会を始め、今年は、関本先生のお墓参りも実現されました。これからも積極的に色々提案をお願いします。

たまたま、マツダのもと職場のOB会がこの掲示板のプロバイダーと同じteacupの有料掲示板を今年の春からはじめまして、クッキーが一連の掲示板にアクセスすると投稿者欄に名前を自動的にアップする仕掛けになっているので、びっくりしましたが、理屈的には、プロバイダーの管理下での現象なので、心配はないのですが、googleなどの検索サイトにも出てきますので、あまり、プライベイトなことは書き込みはやめて置いた方が無難と思います。

まあ、浅野、荒谷、塚本の3人くらいで、たらい回しに無難な書き込みを続けて、誘い水の役目を果たしませんか。
 

同窓会頻度

 投稿者:荒谷勲  投稿日:2012年11月12日(月)10時32分3秒
  では、浅野兄の誘い水の合わせて、何か書きましょう。私が卒業した広島大学工学部工業化学科の同窓会では、これまで毎年、大阪での新年会と、1泊旅行をしてきましたが、参加者が少なくなり、世話人も負担を感じるようになり、来年から新年会だけにすることになりました。卒業者33人、生存者21人、参加者9人の予定です。
二中23期生は2月の同期会と各クラス会があります。さらに私たちは毎月洋酒賞味の会があり、元気で参加できることを、ありがたく思っています。
大学同窓生33人の中に、二中23期生が4人(そのうち5学級から3人)いることを思い出しました。重見三士(旧姓牛尾)、西原孝雄、八束邦敬、と私。私たちは優秀だったのですか?
 

ヌカに釘

 投稿者:浅野温生  投稿日:2012年11月11日(日)08時39分40秒
  故・佐藤文男君からバトンを引き継いだ塚本兄が、23期のHPの充実に努力してくれているのに、本欄への投稿が、8月11日以降、ゼロとは!昭和ひとケタ生まれの傘寿過ぎとはいえ、もう少し同期の仲間の反響がないものか。誘い水になれば、と思いながら。  

関本先生のお墓参りに関連して

 投稿者:塚本  投稿日:2012年 8月11日(土)18時33分38秒
  関本先生のお墓参りを皆さんにお図りしています。そのいきさつが以下のやりとりで出てきたものと言うことが判って頂ければと、転載させて貰います。

1中村兄の縄文塾通信よりの抜粋

縄文塾通信12010.7.1号
アオさんの呪文(2)より抜粋

以下本題から離れるが、実は先日入力代行の方のA君から、
「アオさんのことを書くのなら、折角の機会だから、以下の事実
を載せて欲しい」という話があった。

 実は原爆の落ちた8月6日、本来なら登校・勉強日になっていた
我々2年生が、なぜ広島駅裏の旧東練兵場に植えられたサツマイモ
の草取りにかり出されたかの真相である。

 私たち広島二中2年生は、同1年生と交代で、今の平和公園近く
で建物疎開作業にかり出されていた。 原爆投下の前日(昭和20年
8月5日)、暑い日差しの中やっと作業が終わった時に、アオさん
が(学校に行く代わりに)「東練兵場のいも畑の草取り」に行くこ
とを提案し ほかの先生を説得して、東練兵場行きが決まった。


 というエピソードである。そうした事情をまったく知らないまま
で過ごして来たことになる。もし原爆が前後1日違っていたら、
また、もし当日普通に登校していたら、はたして私たち同期生も
殆ど全滅していたかも知れない。たまたまA君がそばでその話
を立ち聞きしたためで、他のメンバーも知らなかった事実である。

 そう思うと、偶然とは謂えアオさんに感謝するとともに、人間の
生き運や人生の不可思議さを痛感せずにはおられない。

2掲示板より
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re アオさんの決断 投稿者:塚本 昭  投稿日:2010年 7月 4日(日)09時48分43秒  編集済
   荒谷兄
さっそくのレスポンス有難うございます。8月2日、4日は登校日だったのは、はっきりしましたね。そうするとアオさんの決断はご自身でされた確率が高くなったとおもいます。決定権命令権があったのかが問題になりますが。当時、アオさんが先任教師として1年2年全体の統率を任されていた事は充分考えられることです。玉田先生が2年のどのクラスかの担任だった可能性がありますが、なぜ別行動をとられたのか命令権と併せて疑問が残ります。

いずれにしても、アオさんのおかげで、我々が命拾いをしたことはたしかで、感謝の気持が今更のように湧き上がってきます。特に6日に1年2年一緒に二中1年生と同じ場所で作業していて全員犠牲になられた、市立高女の生徒さんのことを考えると尚更です。



アオさん東練兵場行き指示の経緯      荒谷勲  2010.7.3

前日の作業が終了して集合した時、私はたまたま最前列にいて、先生同士の相談を目撃しました。その時アオさんが東練兵場行きを急に思いついたのではなく、すでに軍隊と相談して決めていたことを公表したのでしょう。東練兵場には他の中学生・女学生も来ていたそうです。(国重兄が今年6月から被爆体験の語り部になりましたが、同時に語り部になった他の2人は他の中学生ですが、東練兵場で被爆したそうです。)
また、当日、2年生全員が東練兵場へ行ったのではなく、例えば八束邦敬君は(玉田先生と?)可部線のどこかに行ったそうで、私たちと異なる体験をしています。
私は8月2日か4日の2年生の登校日に疎開作業現場の横を通り過ぎた時、1年生が何人か集まっていたのを見ました

アオさんの決断  塚本昭 201.7.2

しばらく続いたアオさんの呪文を中村兄が縄文塾通信に書かれましたがその最後にアオさんが突然8月6日に、登校でなく東練兵場に変更の決断をされたため我々2年生が命拾いをした事を荒谷兄から知らされて感慨を覚えたと記しておられます。
初耳で驚いたのですが私の記憶では7月の末に古田校長先生が作業現場を視察されて、余りに人数が多いため効率が悪いので、1年と2年を8月1日から交代で作業するように指示され、最初に2年生が疎開作業の当番になったため順番で8月6日が東練兵場に行くようになったとばかり思っていました。疎開作業の当番日以外の作業がはっきり東練兵場の芋の草取りだったと断言できるほど記憶ははっきりしていませんが逆に登校することになっていたとの記憶もありませんが、8月6日が初めてでは無かったことはたしかです。それと前日の夕方の「突然」ですと管理している軍隊への連絡はとれたのでしょうか。8月6日以前に東練兵場に作業に行って、昼に草餅(江波だんご?)を西の方にあった軍?の連絡所に人数分貰いに行った記憶がありますので、事前に連絡を取っていなければならないのでは、と思います。勿論荒谷兄の記憶は正しく否定することにはならないのですが解釈の自由度があるようです。私自身アオさんから前日終業時に公に全員に言い渡された記憶がありませんので、1年、2年交代作業になったとき基本的な作業場所はきまっていたのではないでしょうか。でないと、勝手に先生だけで生徒達を動かすことが許されていたということになります。これについての疑問は「ポプラは語り継ぐ」の編集者浅野兄が当時洩らされたことに、寄稿文を読むと2年全員が東練兵場に行ったのではなく玉田先生が何人か率いて別のところに行っていたとの記述があるとのことでした。というと、先生レベルで勝手に生徒を動かすことが出来るようになっていたのでしょうか。
それと8月2日と8月4日はどうしたかという記憶をどなたかお持ちでしょうか。
皆さんの記憶を集めて議論してみたいですね。
 

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