teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

 <思いやりのあるコミュニティ宣言>
 teacup.掲示板は、皆様の権利を守りながら、思いやり、温かみのあるコミュニティづくりを応援します。
 いつもご協力いただきありがとうございます。

 投稿者
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG> youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ 検索 ]

スレッド一覧

他のスレッドを探す  スレッド作成


時には昔の話をしようか 新井ひとみ

 投稿者:塚本  投稿日:2020年11月27日(金)15時33分5秒
  11月27日午後、NHKの番組を見ていたら偶然新井ひとみちゃんがYOUTTUBEと同じ服装で、現れて、おなじ歌を唄った。慌てて、この欄にアップしたものです。昔、加藤登紀子さんがアニメ紅の豚で歌って評判になったものである。がむしゃらに働いた、若かりし頃を思い出させてくれる。

 
 

平和と希望のコンサート

 投稿者:塚本  投稿日:2020年11月25日(水)07時46分52秒
編集済
  開催日:2020年11月28日17,30より
会場エリザベート音大、セシリアホール
コロナ感染防止のため、合唱団のみの演奏会
曲目の一部に「合唱曲レクイエム碑英語訳歌詞」含む
宣伝パンフレット参照(6月7日時点のパンフレット)
 

1945年4月30日B29一機による広島市空襲

 投稿者:塚本  投稿日:2020年11月 8日(日)21時47分24秒
編集済
  1945/3/19の艦載機による市内空襲が原爆以前の唯一の空襲として紹介したが、その後4月30日浜田軍港偵察のB29一機が帰途途中、中国配電(株)施設(変電所?)に10発の爆弾を投下して通り過ぎている。言わば、行きがけの駄賃みたいな空襲を受けている。この時は空襲警報は出ていなかったと思う。記録によると、10名の死者16名の負傷者、相当数の家屋火災を発生させている。ちょうど通学時間帯だったので、塚本は消火活動中の現場を通ったがこれほどの大被害だった様には見えなかった。
防空警報について、1945年の広島空襲時、どうも、警報なしの状態で受けているのが大部分のように思える。原爆時も、一晩中、空襲警報が続き、明け方になって、やっと警戒警報になったと思うとすぐ、警報解除になり、朝ご飯時で一斉にかまどに火を入れた時、原爆が落ちた。ために、あちこちから一斉に火の手が上がったのは、もちろんビルディングなどの火災は、原爆の熱線によるものと思えるが、民家の場合、相当数はかまどからの出火と思われる。それだけならまだましだが、倒壊した場合、壊れた家の梁に挟まれて「圧焼死」というもっとも悲惨な死が待っている。原爆死の特徴は「圧焼死」であるという。
 

歌謡ひろしま(男声)

 投稿者:塚本  投稿日:2020年11月 1日(日)17時50分8秒
編集済
   

NHK広島、歌謡ひろしま特集

 投稿者:塚本  投稿日:2020年10月31日(土)18時42分43秒
編集済
  2020年10月30日、歌謡ひろしま再公表の経緯をNHKが放映した。番組中で舟入高等学校の女生徒による歌謡ひろしまの合唱を聞かせてくれた。すんだ声の素直な歌唱はプロの歌い方に比して、心に染みた。
歌謡ひろしまは1946年発表され、市民に熱烈に受け入れられたのになぜかレコード化されず、そのため、いつのまにか忘れ去られたというくだりはどうも理解できない。中国新聞も係わっていることだしスポンサー的問題も考えにくい。まだ講和条約(1951年)以前で事実上戦時下であって検閲が厳しかったことが一因かもしれない。長崎の鐘は歌詞中で原爆に触れておらず1949年レコード化されている。
 

古関裕而とハモンドオルガン

 投稿者:塚本  投稿日:2020年10月29日(木)22時01分38秒
編集済
  GHQの要請で1947から放送された戦争孤児を扱った連続ラジオドラマ「とんがり帽子」。古関裕而の演奏するハモンドオルガンの音色に聞き入ったことを懐かしく思い出す。
ハモンドオルガンとエレクトーンの違い
https://mainichi.jp/articles/20150530/mul/00m/040/01000sc

下の写真:古関裕而記念館
 

宮島沖日米空中戦に関連して 

 投稿者:塚本  投稿日:2020年10月28日(水)17時31分19秒
編集済
  76,7年前の話なので、思い違いもあると思うので気づいた人には訂正をお願いしたいのですが、3月19日の地御前に侵入したものかどうかわからないが、春であったことは記憶にある。グラマン戦闘機が複数機、広島市上空に入り当時住んでいた段原山崎町上空に比治山上空を超低空でかすめて入り、そのうち一機の操縦士が地上を眺めている顔が、視線が合ったように地上から見られた。一瞬顔を伏せたと同時に、近くの大洲口(現平和大橋北側)の方から、高射砲発射のおとが聞こえてきた。家の中に逃げ込んだが、あとで、大洲口南に行ってみると、応戦した高射砲弾の鋭い破片があちこちに散らばっているのが見られた。グラマンは東練兵場に向けて機銃掃射をしたことを後で聞いた。これが唯一の原爆以前の広島市空襲である。完全に日本上空の制空権を握られていた証拠である。5ヶ月後原子爆弾で壊滅的被害を受けることをと当時だれが考えたか。何時うけてもおかしくない状況であったことすら。  

ひろしまシャレオストリートピアノ

 投稿者:塚本  投稿日:2020年10月24日(土)18時46分46秒
   

宮島沖日米軍空中戦

 投稿者:塚本  投稿日:2020年10月22日(木)23時09分10秒
編集済
  昭和20年3月19日米軍は空母(を含む)16隻(からなる梯団)から、持てる全ての艦載機を発進させ、呉軍港への猛爆撃がはじまる。艦載機の中の一部・グラマンヘルキャット戦闘機7機が地御前に向って飛んできた。それを迎撃したのが陸軍小月飛行場を発進した新鋭の隼戦2機である。米軍機の標的は満員の客を乗せた上りの旅客列車であった。やがてグラマン4機と隼1機の激しい空中戦が繰り広げられ、身軽になって戦闘をするため積んでいた爆弾(25K)を投下して真っ青な上空を急上昇と急降下を繰り返し機関銃を撃ちました。その爆弾1つが中谷家に被弾し、5名の方が亡くなられた。列車は安全なトンネルで急停車して救われたが、隼1機が撃墜され厳島の長浜にある宮島国民学校の前の海に落ちた。勇敢な将校は九州大分県出身者の櫻木大尉であった。
 隼が発射した戦闘機用13mm機銃弾は地御前(扇園)にあった旭兵器工業(株)で製作したものである。機銃弾の多量の薬莢が、現野坂中学校の前、野坂・砂畠に落ち、地域の人がバケツで拾い集め、憲兵に渡したとの事である。尚、戦争中は厳島で記念写真は撮っても良いが、神社・五重の塔は写しても、弥山は秘密の場所とされ全て消されている。
 米軍が「真珠湾の・・・・」とした呉空襲の回数は、3月19日以降、おもな空襲だけでも6回を数え、2400人(2391人)の死者を出した。真珠湾攻撃での米国側の死者は2000人であった。
 

トリチウムは安全か

 投稿者:塚本  投稿日:2020年10月16日(金)19時34分43秒
編集済
  以下の文献を参考に。
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/genpatsu/what_is_tritium_01.html
 

レンタル掲示板
/78