teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

 投稿者
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG> youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ 検索 ]

スレッド一覧

他のスレッドを探す  スレッド作成


ABCC放影研

 投稿者:塚本  投稿日:2019年 4月22日(月)23時24分15秒
   
 

お知らせ

 投稿者:塚本  投稿日:2019年 4月20日(土)17時06分6秒
  23期同期会は2019年4月20日を以て、定期的開催は止めることになりました。  

中村忠之兄を送る会

 投稿者:塚本  投稿日:2019年 3月17日(日)17時59分58秒
  https://www.marukoshi.jp/write/%254-22-no5968/  

pe pe le moko

 投稿者:塚本  投稿日:2019年 2月24日(日)12時54分42秒
   

被爆1時間後全市炎上

 投稿者:塚本  投稿日:2019年 1月11日(金)19時48分23秒
編集済
  宇品にあった陸軍運輸部より被爆1時間後に撮られた、西は己斐から東は比治山までの全市が炎に包まれた状況の写真(中国新聞掲載)
塚本は、翌7日午前2時ごろの全市の空を真っ赤に焦がす炎を同じ運輸部と同じ位置にあった宇品駅から望見している。あの赤さは二度と忘れえない、赤さであった。平山郁夫画伯が描かれた炎に包まれた全市を極彩色で描かれている絵画(広島生変図)に記憶に近い色の炎が描かれている。
 

映画狂時代若き日のElizabeth Taylor

 投稿者:塚本  投稿日:2018年12月11日(火)07時35分2秒
編集済
   

福田節子さん被爆の絵

 投稿者:塚本  投稿日:2018年10月19日(金)22時10分40秒
  あこがれの女学校じょがっこうに入学したのは、終戦の4ヶ月前でした。物資不足の戦時下では制服もそろえられなくて、黒い服地に白線2本、白タイに梅の校章。学年に2組しかない、家の近くの第二県女だいにけんじょ(広島県立広島第二高等女学校)です。学校ではじめて夏服のブラウスを縫ぬったのですが、色は白ではなくて、セーラー服は禁止されていました。 動員学徒どういんがくと(*1)の女子はみんな「もんぺ」(*2)姿です。
  8月6日は学校別に場所が決められて、建物疎開たてものそかい(*3)組と農作業組に分かれ、二年生西組は当時の雑魚場町ざこばまち(広島市役所の近く)に、他の一、二年生の3組は東練兵場ひがしれんぺいじょう(広島駅の北口の近く)の畠はたけに向かいました。
連日の重労働で疲れきった私達ですが、8時から草取り作業をはじめました。 その十数分後です。突然するどい閃光と爆風におそわれて、身体は宙に飛んだのです。
  数分間は失神しっしんしていたようですが、気がつくと周囲はうす暗く、煙が漂う中から次々と立ち上がってくる亡霊ぼうれいのような姿に驚きました。 みんな、髪はちじれて、服は上下ボロボロに焼かれて、声もなく震ふるえています。悪夢をみているようで、私も自分の姿が気になります。
  私は両腕が焼かれています。左腕内側は指先まで皮膚ひふがたれ、右腕外側は肘ひじの皮膚が破やぶれ、

東練兵場(「市民が描いた原爆の絵」森田節子さん作)
手首から先は水ぶくれで、ズボンの右後ろから裾すそまで火傷でした。後ろから被爆したのでしょう。
  担任の若い女先生おんなせんせいも重傷でしたが、数人ずつ集まって近くの神社(広島東照宮とうしょうぐう)に避難しました。水筒の水をかけ合って痛みを抑え乍ながら、救援を待っていましたが、誰も来ません。街中が黒煙こくえんと炎にまかれて、 この世とは思われない凄惨せいさんな姿の人の群れが、異様いような叫び声を上げてこちらの方に近づいてきます。
  私達の中で歩けるものが、数班に分かれて、当時宇品うじなにあった学校に向かいました。市内には入れないので、駅から軍用列車の線路をつたって南へ向かいました。途中、猿猴川えんこうがわにかかる鉄橋てっきょうを渡るときは、足を踏ふみ外した人が川に落ちたようです。川には上流から死体が流れていました。
福田節子さん記述
 学校は残っていましたが、建物が壊れていて中に入れず、すぐ隣にあった女子専門学校に助けを求めて入りました。教室、廊下、運動場の「むしろ」(*4)にも重傷者がいっぱいでした。翌日の午後、救護の車が助けに来ました。
  学校の近くの我家は半壊はんかいで残っていて、父母は軽傷で生きていてくれました。私の怪我けがは、腐くさった様なにほいのする中で、父母の必死の看病で、3ヶ月位いで治りました。
二年生西組は雑魚場町の建物疎開作業で38名死亡しましたが、その中で1人だけ助かった坂本節子さかもと せつこさんは、映画「原爆の子」(新藤兼人しんどう かねと監督。1952年公開)のモデルになったと言われています。
  顔にケロイドが出来た一年生の生き残りは、思春期、青春期をかくれるように生きたそうです。私は子供に恵まれず寂しい半生でしたが、今は証言活動で子供達と出会って励まされています。
  被爆後のおよそ10年間の、私の思春期、青春期の思い出を『「空白の十年」被爆者の苦闘』(*5)という本に書いているので、図書館などで、そちらも読んで下されば幸いと存じます。
(*1) 労働力不足を補うため、工場などの労働に強制的に動員された生徒・学生。
(*2) 足首の部分で裾を絞しぼった、ゆったりした女性用作業ズボン。
(*3) 空襲くうしゅうにより火災が周辺に広がるのを防ぐために、あらかじめ建物を取り壊して、防火地帯を作ること。
(*4) ワラなどの草で編まれた敷物。
(*5) 2009年、広島県原爆被害者団体協議会発行。広島県内の主な図書館や大学に寄贈された。



 

東練兵場の被爆生徒

 投稿者:塚本  投稿日:2018年10月18日(木)22時14分20秒
編集済
  東練兵場で被爆したのは我々23期生だけではなかった。塚本が垰君と国前寺に避難する途中で西から幽霊のような悲惨な姿で無言で歩いて来る女学生たちとすれ違った。あの人たちがどこの学校の生徒かが最近になりわかった。練兵場の西端に第5騎兵聯隊が駐屯していたが1945年4月、鈴鹿山脈より西、近畿、中国、四国、九州の軍隊、行政、国民を統括してあたかも独立国の様な組織が畑元帥の基に第2総軍が設立されていた司令部には、英語に堪能な生徒が多い女学院高女、陸軍の外郭団体偕行社の創立した比治山高女、の各40名、司令部の外東側で農耕作業に従事していた県立第2高女1,2年生がいた。彼女等の一部だったろう事が分かった。東に県立2中、西に県立2高女がいたことになる。被爆の絵に近くに県立二高女生、遠く(東)に県立二中生が描かれている。
 

一年後輩ですが・・・

 投稿者:胡井 香  投稿日:2018年 7月27日(金)17時21分23秒
  ネットサーフィン中に偶然に通りかかった後輩、30年卒業です。近畿在住の5名が十数年前から高槻市のわが家に集まって定例の会食をしていましたが、3年前からはわずか2名に。吾輩は30年来の独居生活。三次高校なので菜園は自分、花は亡妻が担当していましたが、今は両方で前庭は垣根のつるバラ、裏庭や2Fの広いベランダでは野菜づくり。結構多忙であります。
おかげさまで長男は医師、その初孫も昨年から研修医。年金暮らしですが結構何不足なく暮らしています。・・・・突然参上の無礼をお許しください。
 

24hours after hiroshima3

 投稿者:塚本  投稿日:2018年 5月20日(日)00時00分30秒
   

レンタル掲示板
/43