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同窓会頻度

 投稿者:荒谷勲  投稿日:2012年11月12日(月)10時32分3秒
  では、浅野兄の誘い水の合わせて、何か書きましょう。私が卒業した広島大学工学部工業化学科の同窓会では、これまで毎年、大阪での新年会と、1泊旅行をしてきましたが、参加者が少なくなり、世話人も負担を感じるようになり、来年から新年会だけにすることになりました。卒業者33人、生存者21人、参加者9人の予定です。
二中23期生は2月の同期会と各クラス会があります。さらに私たちは毎月洋酒賞味の会があり、元気で参加できることを、ありがたく思っています。
大学同窓生33人の中に、二中23期生が4人(そのうち5学級から3人)いることを思い出しました。重見三士(旧姓牛尾)、西原孝雄、八束邦敬、と私。私たちは優秀だったのですか?
 
 

ヌカに釘

 投稿者:浅野温生  投稿日:2012年11月11日(日)08時39分40秒
  故・佐藤文男君からバトンを引き継いだ塚本兄が、23期のHPの充実に努力してくれているのに、本欄への投稿が、8月11日以降、ゼロとは!昭和ひとケタ生まれの傘寿過ぎとはいえ、もう少し同期の仲間の反響がないものか。誘い水になれば、と思いながら。  

関本先生のお墓参りに関連して

 投稿者:塚本  投稿日:2012年 8月11日(土)18時33分38秒
  関本先生のお墓参りを皆さんにお図りしています。そのいきさつが以下のやりとりで出てきたものと言うことが判って頂ければと、転載させて貰います。

1中村兄の縄文塾通信よりの抜粋

縄文塾通信12010.7.1号
アオさんの呪文(2)より抜粋

以下本題から離れるが、実は先日入力代行の方のA君から、
「アオさんのことを書くのなら、折角の機会だから、以下の事実
を載せて欲しい」という話があった。

 実は原爆の落ちた8月6日、本来なら登校・勉強日になっていた
我々2年生が、なぜ広島駅裏の旧東練兵場に植えられたサツマイモ
の草取りにかり出されたかの真相である。

 私たち広島二中2年生は、同1年生と交代で、今の平和公園近く
で建物疎開作業にかり出されていた。 原爆投下の前日(昭和20年
8月5日)、暑い日差しの中やっと作業が終わった時に、アオさん
が(学校に行く代わりに)「東練兵場のいも畑の草取り」に行くこ
とを提案し ほかの先生を説得して、東練兵場行きが決まった。


 というエピソードである。そうした事情をまったく知らないまま
で過ごして来たことになる。もし原爆が前後1日違っていたら、
また、もし当日普通に登校していたら、はたして私たち同期生も
殆ど全滅していたかも知れない。たまたまA君がそばでその話
を立ち聞きしたためで、他のメンバーも知らなかった事実である。

 そう思うと、偶然とは謂えアオさんに感謝するとともに、人間の
生き運や人生の不可思議さを痛感せずにはおられない。

2掲示板より
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re アオさんの決断 投稿者:塚本 昭  投稿日:2010年 7月 4日(日)09時48分43秒  編集済
   荒谷兄
さっそくのレスポンス有難うございます。8月2日、4日は登校日だったのは、はっきりしましたね。そうするとアオさんの決断はご自身でされた確率が高くなったとおもいます。決定権命令権があったのかが問題になりますが。当時、アオさんが先任教師として1年2年全体の統率を任されていた事は充分考えられることです。玉田先生が2年のどのクラスかの担任だった可能性がありますが、なぜ別行動をとられたのか命令権と併せて疑問が残ります。

いずれにしても、アオさんのおかげで、我々が命拾いをしたことはたしかで、感謝の気持が今更のように湧き上がってきます。特に6日に1年2年一緒に二中1年生と同じ場所で作業していて全員犠牲になられた、市立高女の生徒さんのことを考えると尚更です。



アオさん東練兵場行き指示の経緯      荒谷勲  2010.7.3

前日の作業が終了して集合した時、私はたまたま最前列にいて、先生同士の相談を目撃しました。その時アオさんが東練兵場行きを急に思いついたのではなく、すでに軍隊と相談して決めていたことを公表したのでしょう。東練兵場には他の中学生・女学生も来ていたそうです。(国重兄が今年6月から被爆体験の語り部になりましたが、同時に語り部になった他の2人は他の中学生ですが、東練兵場で被爆したそうです。)
また、当日、2年生全員が東練兵場へ行ったのではなく、例えば八束邦敬君は(玉田先生と?)可部線のどこかに行ったそうで、私たちと異なる体験をしています。
私は8月2日か4日の2年生の登校日に疎開作業現場の横を通り過ぎた時、1年生が何人か集まっていたのを見ました

アオさんの決断  塚本昭 201.7.2

しばらく続いたアオさんの呪文を中村兄が縄文塾通信に書かれましたがその最後にアオさんが突然8月6日に、登校でなく東練兵場に変更の決断をされたため我々2年生が命拾いをした事を荒谷兄から知らされて感慨を覚えたと記しておられます。
初耳で驚いたのですが私の記憶では7月の末に古田校長先生が作業現場を視察されて、余りに人数が多いため効率が悪いので、1年と2年を8月1日から交代で作業するように指示され、最初に2年生が疎開作業の当番になったため順番で8月6日が東練兵場に行くようになったとばかり思っていました。疎開作業の当番日以外の作業がはっきり東練兵場の芋の草取りだったと断言できるほど記憶ははっきりしていませんが逆に登校することになっていたとの記憶もありませんが、8月6日が初めてでは無かったことはたしかです。それと前日の夕方の「突然」ですと管理している軍隊への連絡はとれたのでしょうか。8月6日以前に東練兵場に作業に行って、昼に草餅(江波だんご?)を西の方にあった軍?の連絡所に人数分貰いに行った記憶がありますので、事前に連絡を取っていなければならないのでは、と思います。勿論荒谷兄の記憶は正しく否定することにはならないのですが解釈の自由度があるようです。私自身アオさんから前日終業時に公に全員に言い渡された記憶がありませんので、1年、2年交代作業になったとき基本的な作業場所はきまっていたのではないでしょうか。でないと、勝手に先生だけで生徒達を動かすことが許されていたということになります。これについての疑問は「ポプラは語り継ぐ」の編集者浅野兄が当時洩らされたことに、寄稿文を読むと2年全員が東練兵場に行ったのではなく玉田先生が何人か率いて別のところに行っていたとの記述があるとのことでした。というと、先生レベルで勝手に生徒を動かすことが出来るようになっていたのでしょうか。
それと8月2日と8月4日はどうしたかという記憶をどなたかお持ちでしょうか。
皆さんの記憶を集めて議論してみたいですね。
 

被爆地点 複刻版

 投稿者:塚本  投稿日:2012年 7月29日(日)15時55分52秒
  2007年6月から8月まで荒谷兄と塚本で考察したものの複刻です。しばらくなんのかきこみもないので8月6日も近づきましたし、昔の話を蒸し返してみました。書き込み順は下から上へとなっています。コピーの関係でもとの日時は削除しています。

塚本
   いつの間にか8月になりました。原爆記念日が又来ます。この辺で不十分ですが、纏めに入らせていただきます。被爆地点のピンポイントは、現在の広島ガーデンパレス付近とかんがえられます。異見のあるかたはいつでも良いですからこの欄に寄稿下さい。このほかの被爆地点としては、二中校舎、祇園?の鍛錬道場(玉田先生引率)、登校途中の3点が挙げられます。被爆後の行動は荒谷兄が上手に纏めて下さっているこのホームページの「ポプラは語り継ぐ」に詳細に記録されています。62回めの原爆の日に因んで「ポプラ・・・・」に語り残した体験を、皆で、なにかの形で残したいものです。
この掲示板は1年すると自動的に消えるそうですからそれまでに何らかの動きが出ることを願っています。

色々お調べ頂いて有難うございます。ピンポイントの被爆地点ということになると、なかなか一点に収斂することは、難しいようですね。作業開始直前の時間であったことで、各人ばらばらになるのも当然かも知れません。最大公約数的には、すでに集合場所に居て、シャツ一枚になっておられた人たちの場所が代表地点になるのでしょうか。5学級の西原孝雄君は、すでに集合場所に居たとの事です。貴兄もすぐ近くに居られた事にになりますかね。
5学級の岡野君が、保線区の倉庫で被爆されたとの事、そうすると、塚本も近くにいたかも知れません。というのは、私は愛宕の陸橋(現在も改築されて同位置に在る)を渡って東練兵場に入ってすぐ枕木の集積されたところに、二中生が4~5人たむろして雑談しているところに合流したことを思い出しました。そこで3学級の指田勢郎君から7月下旬、五日市に撃墜されたB24のプラスティックの風防ガラスの破片をもらってすぐ、集合の号令を聞き、皆が声の方向に歩きだしたのですが、私だけ水を飲むため遅れて後を歩いているときB29の爆音を聞き、その方向を見つめているとき、左耳と左後頭部に火傷を負ったのでした。枕木というと保線区の管理ですから、枕木の場所と岡野君の位置とは、意外に近くだったのかも知れないと思うわけです。




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  荒谷
5学級岡野正敏君に連絡が取れました。彼の記憶では愛宕踏切を渡ってまもなく左折して東練兵場へ出ると、国鉄の保線区の倉庫があった。彼は暑い日差しを避けてその倉庫の軒下にいた。やがて集合の号令があったがすぐには集合場所に行かず、軒下にいたため爆発時に瓦が落下したので這って逃げたそうです。保線区の倉庫となると、かなり駅に近いはずで、もしかすると広島駅を発車して間もない上り新幹線の線路のすぐ下あたりでしょうか?


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塚本
かなり前のことになりますが、被爆直後、避難した機関車の退避壕で出会って、比治山の東西に分かれて住んでいた夫々の自宅へ途中まで一緒に逃げた、峠(たお)兄からの情報です。退避壕のなかで、岡山県立一中の3年生が動員先に行く途中、広島駅の車中で被爆、退避壕に避難して来られたのに、出会い、彼らから、手持ちの傷薬で二中生の何人かが、私たちをふくめ治療を受けました。大変感謝していましたが、そのままになっていました。彼と電話で話したとき、戦後かなり経ての話だが、岡山県の新聞か、中学校関係の雑誌かに、当時の岡山県立一中生の方が、広島県立二中生の治療をしたという思い出を書いておられたという情報を聞きました。混乱の中ですから、治療を受けたのは私たちだけではないはずで、心当たりの人があれば、思い出してみて下さい。今となっては、どうし様もないことですが、心の中で感謝しましょう。


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塚本
荒谷勲兄の情報と、~hsakata氏のHPからの情報から、荒谷兄が見られたお寺か神社の火柱はたぶん聖光寺(旧瑞川寺)(戦後再建)の本堂からのものと思われます。国前寺の東側に聖光寺は位置しますが、国前寺は、焼け残っていますので、聖光寺と判断できます。ただ、我々の位置がそこからどれくらい南に離れていたかですが、これこそ皆さんの記憶に待たなければなりません。皆さんのご寄稿をお願いします。


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   歴史の散歩道のURLの訂正です。
正:http://www.megaegg.ne.jp/~hsakata/index.htm

最後のhtmlはhtmが正しいです、同じと思っていましたが、インターネットは受け付けません。


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塚本
早速ご回答有難うございます。5学級の西原孝雄君が原爆手帳の申請に「広島修道院」と記入しているのを見たことがあります。現在は、代々木ゼミナールの建物になっていますが、私の印象としては、そこより、も少し西寄りではなかったかという思いがあります。となると、貴兄の言われるガーデンパレスはまさに一致します。真正面にお宮かお寺が見えたとのことですが、参考までに歴史の散歩道の神社仏閣の写真をHPにアップロードしておられる方が居られます。参考までに、URLをしるしておきますので、記憶を呼び起こすきっかけなればと願っています。
 http://www.megaegg.ne.jp/~hsakata/index.html


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荒谷
私の記憶では、国鉄愛宕踏切を渡ってまもなく左折して、道路沿いの民家の横をすり抜けると東練兵場に出ました。集合場所を探しまわることもなく、すぐに級友たちが上着を脱いで集合しているのを見つけました。ですから東練兵場の東南端であったと思います。現在の建物で言えば広島ガーデンパレスあたりでしょうか?また被爆後立ち上がって回りを見ると、正面の山腹のお寺かお宮から火の手が上がっていました。私は集合時間にわずかに遅れたので上着をまだ脱いでいませんでした。そしてB29が飛来したのです。上着のおかげで腕や肩の火傷を免れました。機会があればほかの級友にも聞いてみます。


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塚本
この掲示版の話題提供ともなればと少し書かせて貰います。私自身が一番知りたいもものですから。一般に我々の被爆場所は、東練兵場とか、二葉の里とか言っているわけですが、ピンポイントで指定するとなると、今となってはなかなか現存建物が旧練兵場にはないので、二葉山のふもとに散在する歴史の散歩道沿いの神社仏閣を目印に位置を推定するしかないのかなと思います。爆発時居た場所があいまいなのですがそこから、私の記憶では西南?に走って機関車の退避壕に逃げ、しばらくしてそこから北北西にかなり歩いて国前寺の石段まで行ったのは記憶にあります。最初の真っ暗闇の中でどれくらい走ったか時間はわかりません。皆さんの記憶を呼び覚ましていただけないでしょうか

 

個人情報について注意

 投稿者:塚本  投稿日:2012年 6月 5日(火)13時44分43秒
  この書き込みの下に横文字で、訳のわからない投稿が在ります。ブラジルから発信されているようです。内容的にこの掲示板を混乱させるようなものではないようですので、様子を見ていますが。みなさんも注意をしてください。特にこの掲示板では皆、実名を使っていますので、工夫をしてください。

ホームページの住所欄は削除しました。必要な方は、メールで尋ねてください。
 

BoARBiyzQG

 投稿者:ZgNGKvsGONbaJfvstO  投稿日:2012年 5月27日(日)13時57分13秒
  I'd vnteure that this article has saved me more time than any other.  

訃報

 投稿者:塚本  投稿日:2012年 4月 9日(月)15時43分45秒
  2012年4月6日、加賀谷禮三郎先生(英語)が逝去されました。103歳。ご冥福をお祈りします。  

携帯電話の活用

 投稿者:塚本  投稿日:2012年 3月29日(木)18時23分22秒
  この掲示板は携帯からも使えると言ってきましたが、携帯電話は災害時に役立ちます。いざと言うときどうすればよいか、下記のホームページを参考にしてください。


http://www.city.kyotango.kyoto.jp/kcfd/yobou/sonae/sonae.html#02
 

アオさんのお墓に参りますか

 投稿者:荒谷勲メール  投稿日:2012年 2月27日(月)19時36分19秒
  原爆が投下された8月6日は、我々23期生は登校日だったのですが、急に予定が変わって東練兵場の芋畑の草取りに行き、火傷を負ったものの生き残りました。予定とおり登校日であったら、多くの同級生が、登校途中の市内で被爆したり、倒壊炎上した校舎の下敷きになって死亡したと思います。その予定変更に、アオさん(関本先生)が深く係っておられたので、我々の命の恩人と言えます。そのお礼の気持を込めてアオさんのお墓にお参りすべきかと思いつきました。みんなでお参りしますか?  

祝! ニュー縄文通信

 投稿者:浅野温生  投稿日:2012年 2月27日(月)09時48分7秒
   昨年11月だったかに休刊宣言が載っていた縄文通信が2月25日、”ニュー縄文通信”として再送信されて来ました。不定期ながら再開する由、中村塾頭の復調の証と喜んでいます。無理をせずにユニークな論調、健筆を期待しています。  

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